私が顕微鏡歯科治療をはじめたのは2009年から。
最初の8年はピコモラーを使用し、2017年からプロエルゴを使用し現在に至ります。
私の顕微鏡歯科治療歴16年のうち、8年ずつマニュアル顕微鏡とモータライズド顕微鏡を使用したことになるので、それなりに両者の特性はわかっているつもりです。

2009年には今のようなWEBセミナーもなく、顕微鏡歯科に関する情報も少ない状態でした。
ある書籍で今でも覚えている言葉があります。
「顕微鏡歯科治療は歯科界にパラダイムシフトを起こすだろう」

この言葉に私の胸はどれだけときめいただろう。
自分の仕事で生涯、パラダイムシフトが起こることなんてそう滅多に無いことです。

日本顕微鏡歯科学会には2010に初めて参加し、同じ目標に向かって邁進する仲間たちと顕微鏡歯科治療の話を夢中に、熱をもって話すことがどれほど楽しかったことか。

しかし、数年経つと自分とのズレを感じ始めました。

それって見えてるの?

いつしか学会に参加しても内容がつまらなく感じ始めました。

そのころはその「ズレ」というものがうまく説明できないボヤけたものでしたが、そこから経験を積み「顕微鏡歯科治療の本質」とはなんなのか考え続けた結果、少しその輪郭が見え始めました。

「見える治療とは」はなんなのか、「顕微鏡歯科治療の本質」とはいったいなんなのかを、ここ数年顕微鏡仲間に問うたところ、
・うちは野戦病院だから直視
・うちは保険治療だから直視
・両手を使うから直視
・顕微鏡を普及させたいので安いマニュアル顕微鏡が良い
・フォーカスがズレるのは慣れだよ
・モータライズドだとフットスイッチが増えてしまう
という返答があった。

「見える治療」はなんなのか、「顕微鏡歯科治療の本質」を問うたのに論点がずれてしまい本質を議論できないことがほとんどでした。

昨年の東京大会が縁で名古屋大学名誉教授の鈴木繁夫先生とお話をしている中で、哲学のお話を聞く機会がありました。

私は哲学とは無縁ではありましたが、鈴木先生が話す内容は私の興味を刺激してその後哲学の本を何冊か読みました。

はじめての哲学的思考という熊本大学の苫野一徳先生の著書に「哲学とは意味や価値の本質を解き明かすこと」「哲学は本質を洞察する思考法」との記述がありました。

哲学は頭の良い人がなんだかわからない難しい言葉を並べるものではなく、私たちの身近にあるものなのだと教えてくれました。
哲学者は自分の頭で本質を考え抜くことを行なっていますが、我々一般人には難しいため、「本質観取」という手法を紹介しています。

この本質観取とはフッサールという哲学者の本にあるもので、本来1人称で行う考え方の手法のようです。

難しいことは飛ばしますが、6〜15人くらいでリラックスした状態で本質について話し合います。
恋とは?正義とは?など
経験した事柄であるのが好ましいようです。

この手法で「見える治療とは」「顕微鏡歯科治療の本質」を議論できないか?
でもモータライズドも本当の意味でのミラーテクニックを経験したことが無い人ときちんと議論できるのか、という疑問があります。

今は相対主義の時代と言われています。
「そんなの人それぞれでいいじゃん」
今年の徳島大会の講演にもありました。「ミラーも直視も見えればどっちでもいいでしょ」
一見すると相手を思いやるような言い方ですが、「みんな違っていいのか?相対主義と普遍主義の問題」の著者山口裕之先生は、
「相手と関わらないで済ますための最後通牒」と言っています。

日本顕微鏡歯科学会で見える治療の本質、顕微鏡歯科治療の本質を議論しないでどこでするのだろうか?

「絶対正しいことなんてない」からこそ「より正しいこと」を求めていかなくてはならない  とも仰っています。

さらに訂正する力の著者東浩紀さんは「当事者にアイデンティティはつくれない」と言っています。
日本には外国人が増えてきて日本の文化や伝統が壊れてしまうのではないか、と心配する人達がいます。
では日本の伝統や文化とななんなのか?意外と私たち日本人は答えられないものです。
日本の伝統や文化は外国人の方が理解している、ということを例にとっています。

2024年シンポジウムで鈴木先生は日本語を使う我々と英語を言語とする人たちでは考え方が異なる部分があることを教えてくれました。
例えば川端康成の雪国の中にある「トンネルを抜けるとそこは雪国であった」という情景は、私たち日本人は自分が汽車の中にいて、暗いトンネルを抜けると白銀の世界が広がるイメージを持つ人が多いと思います。
ところが英語話者は、上空からトンネルを抜けてくる汽車を思い浮かべるそうです。

日本語は「寄り添う」という特性を持つため、顕微鏡で見る映像=自分となる傾向があるようです。
ですから直視、ミラーのどちらの先生もその見え方の話になると感情的になるようです。

とてもデリケートな部分に触れざるをえないのです。

「独善的かつエゴイスティック」
これは大学院時代の一つ上の先輩が指導教授に言われた言葉です。
「君の論文は独善的かつエゴイスティックだ」と。

なぜか25年以上経った今でもこの言葉を思い出します。

特に「見える治療とは」「顕微鏡歯科治療の本質」を話すときには。

シンポジウムなどではどうしても「直視かミラーか」の二項対立になりがちなので議論が空転しやすいのです。
私も三橋純先生もずっと以前から言っているのですが、顕微鏡歯科治療を行う医療従事者であれば直視もミラーテクニックもどちらもできなければならないのである。
本来、本質を語るのならこのどちらもできる人間で議論しないと意味のある議論にならない。
そこを相対主義的にどっちでもいいじゃん、ではこの学会が存在する意味がなくなる。

・いざという時は自分もミラーテクニックを使う
これまでにたくさん聞いた言葉である。

その動画を見るたびに、見える治療の本質を考えさせられる。

治療の成功率を上げるために顕微鏡を使用することは間違いない。

直視でマニュアル顕微鏡を使っている人でも、今の治療に全く問題ないという。

これって肉眼治療をしている人も同じことを言うんですよね。

経験していない世界を見ないとわからないことはあるのではないでしょうか。

自分の体験で言うと、私も例外なく肉眼直視で教育を受けてきました。
でも、拡大の素晴らしさを知ったのと同時に直視の限界も知りました。
ミラーテクニックの経験がないにも関わらず。
さらにマニュアル顕微鏡で8年一生懸命やってきましたが、絶対にモータライズドマイクロスコープと同じことはできないと、その当時から痛感していました。

私なりにずっと考えてきました。
詳細は省略しますが今行き着いたところでは、ミラーテクニック+モータライズドマイクロスコープの動画を見せる頻度をもっと多くすれば、その人が体験していなくても気づきのきっかけを作れるのではないか。

とにかくミラーテクニック+モータライズドマイクロスコープの顕微鏡歯科医師は少数で、その治療動画を見る機会が極端に少ないのではないだろうか。

私はたまたま三橋先生とお会いする機会が度々あり、動画を見せてもらったり雑談も多くしました。

前出の訂正する力の著者東浩紀さんはこうも言っています。
「情報のみを伝えるのではなく本題から外れる話が大事」、「余剰の情報が大事」と。

私は幸いにもこのような機会に恵まれたので、ミラーテクニック+モータライズドマイクロスコープの体験がなくても、これが顕微鏡歯科治療の本質なのであろうと予感したのだと思います。

どうにかしてリラックスした雰囲気で双方向の話を聞く場が作れないかなあと考えています。

顕微鏡歯科治療の本質の話をするとすぐに、再生治療の時は両手を使うとか、根面被覆の時は両手を使うとか、歯間乳頭再建治療の時は両手を使うとか、GBRの時は両手を使うなど、どうして一般基本治療を飛び越してこの話をするのか、私にはさっぱり理解できません。

私も上記の治療はしますが、直視もミラーテクニックもできるのでその状況に合わせて使い分けることができます。
それでももっと良い方法はないかなあと日々考えています。

直視の人は直視しかできないので、どんな場面でも直視しかできないのが問題なのです。

冒頭に顕微鏡歯科治療はパラダイムシフト起こすかもしれないと言うことを書きましたが、実は顕微鏡は基本に立ち返るために私たちに謙虚になりなさいと教えてくれているのではないかと考えています。
謙虚に真摯に一般歯科治療を行うその先に再生治療や根面被覆治療があるのではないでしょうか。

先日NHKの人体が最終回になりましたが山中先生は番組の中でこうおっしゃっていました。
山中先生:「私達研究者も先入観にやられちゃうんですね」
タモさん:「その考え方も違うかもしれないと」
山中先生:「研究者は謙虚になる必要がある」

これは自戒も込めてこうありたいと思っています。

顕微鏡歯科治療に謙虚で真摯に取り組もうそすれば、いつまでも直視とかマニュアルとか言わなくなると思うんだけどなあと思いますが、いつも自分に反問しています。
独善的かつエゴイスティックになっていないかと。

鈴木先生とお話をする中で、この両者のこれからの歩み方として教えていただいたことを紹介します。

「見える」をめぐる破折(シンポジウムで歯科に関連が深い「破折」という言葉を使っていましたが、ここでいう「破折」は仏教用語です)

破折屈伏 はしゃくくっぷく
 「折」は破邪の意で、間違った考え方をうち破ること。
 「伏」は顕正の意で、正しい道に帰伏せしめ導き従わせること。
  あくまで慈悲の表れであることを弁えなければならない。

摂引容受 しょういんようじゅ
 心を寛大にして相手やその間違いを即座に否定せず反発せず受け入れ、
 穏やかに説得すること

仏教に出てくる言葉です。

摂引容受であることが一番良いのでしょうね。

最後に私のクラウン形成の動画をご覧いただきますが、外側性は直視でも良いのかもしれません(私はそう思いませんが)。
私達は内側性処置が多いので、ここではミラーも直視も必須になります。
ただ、クラウン形成のように外側性の処置にこそ、その人の「見える治療」、「顕微鏡歯科治療の本質」の考え方が如実に表れるのだと思います。